「邪」の力よりも「愛」の力の方が勝る
日本の習慣に通夜や葬式の後に身体にお清めの塩をまく習慣があります。
これは、葬儀の場から持ち帰った「邪悪な気」を家の中に持ち込まないようにするために行われる行為となります。
職場でも、経営者がお付き合いのお葬式の斎場へ行き、帰社した際に
玄関口へ塩を置いておき、経営者はきまって
「縁起が悪いから塩用意しなくちゃ」と言います。
私はどうもこの様な発言を耳にすると人の死を穢れたもの扱いしている感じがして「???」と感じていました。
本日も葬儀場へ向かう経営者は、
「コロナで移ると危ないから参列しないで受付に置いてくるだけでサッと帰って来るんだ」との発言に愛がないなぁと思いました。
調べた所
お清めの塩を振る行為は、
死を穢れたものとして捉えている神道(イザナミ・イザナギ様に近づく相応しい身体になるため)の考えに基づいています。
よって、日本における風習として使っている場合を除き、
本来、死を穢れたものとして捉えていない仏教やキリスト教では塩を使いません。
リスト教の場合は神のお側に行けるというとても喜ばしいこととして捉えられています。
浄土真宗は「死による穢れ」ということを強く否定していますので、お清め塩を配られないことが多くあります。
私の家は浄土真宗で「死による穢れ」を否定する考え方です。
たまたま私と同じ考え方なのですが、
ここからは私、独自の考え方です。
通夜、葬式に参列し故人を偲ぶ。
故人に対して想いを馳せる時間も経過していないうちに
通夜、告別式が行われ、
その故人に対して、またはそのご家族の心中を想うと
胸が痛くなり張り裂けそうで心が痛い。
そんな、胸いっぱいの中で、どうして自分に邪気が取りつく事があるだろう。
邪気が取りつく隙間もないくらい人を想う愛でいっぱいだ。
死は穢れでなく、
導き。
人の死により家族の絆をもっと強固とする。
これが私の独自の考えであるので、葬儀場の帰りに身体にお清め塩をまく事はない。
人によって考え方は色々です。
私に様な考え方ではない方もたくさんいることでしょう。
(みんながやってる(塩をまく)から何も考えず私もしてる)ではどうしようもありません。
私の考えは
「邪」の力よりも「愛」の力の方が勝ると信じています。